かんぴょうの歴史
とちぎの干瓢 300年の変遷
栃木県民の文化にも深く根ざした干瓢
その歴史と文化
とちぎの干瓢にまつわる動き
西暦 | 元号 | 年 | 出来事 |
---|---|---|---|
西暦:1712年 | 元号:聖徳 | 2年 | 下野国壬生に干瓢が入る |
西暦:1864年 | 元号:元治 | 元年 | 壬生干瓢商組合設立7名 |
西暦:1877年 | 元号:明治 | 10年 | 安塚村の戸長・島田武七朗、「干瓢」を全国に紹介 |
西暦:1888年 | 元号:明治 | 21年 | 下野干瓢商問屋組合 発足 |
西暦:1893年 | 元号:明治 | 26年 | 干瓢早剥き器械(下野市三王山・海老原右京)完成 |
西暦:1921年 | 元号:大正 | 10年 | 干瓢丸剥き用手回し機 |
西暦:1923年 | 元号:大正 | 12年 | 栽培面積3214ha |
西暦:1930年 | 元号:昭和 | 5年 | 足踏み式丸剥き機(小菅農機製作所)考案 |
西暦:1937年 | 元号:昭和 | 12年 | 栃木県干瓢卸商業組合 発足 鳥居忠英頌徳碑建立(壬生町精忠神社) |
西暦:1947年 | 元号:昭和 | 22年 | 栃木県干瓢商業協同組合 発足 (62社加盟 仲買人約300人) 統制額指定 |
西暦:1948年 | 元号:昭和 | 23年 | 経済統制解除 |
西暦:1951年 | 元号:昭和 | 26年 | 第一回全国干瓢問屋連合大会開催(塩原温泉) |
西暦:1955年 | 元号:昭和 | 30年 | 動力式丸剥き機(小菅農機製作所)製作 |
西暦:1962年 | 元号:昭和 | 37年 | 干瓢発祥250年記念碑建立(壬生町精忠神社) |
西暦:1970年 | 元号:昭和 | 45年 | 台湾で生産始まる |
西暦:1971年 | 元号:昭和 | 46年 | 干瓢生産農家戸数 8915戸 |
西暦:1973年 | 元号:昭和 | 48年 | オイルショックで暴騰 |
西暦:1974年 | 元号:昭和 | 49年 | 韓国で生産始まる |
西暦:1976年 | 元号:昭和 | 51年 | 韓国視察 フィリピンで生産始まる |
西暦:1977年 | 元号:昭和 | 52年 | 第一回干瓢剥き競技選手権大会(小山遊園地) |
西暦:1978年 | 元号:昭和 | 53年 | 収穫量5080t 中国で生産始まる |
西暦:1979年 | 元号:昭和 | 54年 | 新品種『野州2号』問題 |
西暦:1980年 | 元号:昭和 | 55年 | 栃木県干ぴょう生産流通連絡協議会 結成 味付け干瓢出回り始まる |
西暦:1981年 | 元号:昭和 | 56年 | 栃木県干瓢産出額 72億8千万円 |
西暦:1989年 | 元号:平成 | 元年 | タイで生産始まる 第一回干瓢入札会(JA経済連) |
西暦:1991年 | 元号:平成 | 3年 | 栃木県かんぴょう生産者大会 園芸特産干瓢専門部会 設立 |
西暦:1993年 | 元号:平成 | 5年 | インドネシアで生産始まる |
西暦:1997年 | 元号:平成 | 9年 | 栃木県干瓢商業協同組合創立50周年 |
西暦:2000年 | 元号:平成 | 12年 | 第50回全国干瓢問屋連合大会 開催(凍結) |
西暦:2001年 | 元号:平成 | 13年 | 「1月10日」干瓢の日制定 干瓢品評会 干瓢料理コンクール |
西暦:2002年 | 元号:平成 | 14年 | 第1回栃木のかんぴょう祭り 開催 |
西暦:2003年 | 元号:平成 | 15年 | 生産者・問屋交流会 開催 |
西暦:2005年 | 元号:平成 | 17年 | 石橋町(下野市)で干瓢生産分業化始める |
西暦:2006年 | 元号:平成 | 18年 | 干瓢入札会(経済連よりJA小山に移管) 栃木県干瓢商業協同組合創立60周年 農林統計調査打ち切り |
西暦:2008年 | 元号:平成 | 20年 | 栃木県干瓢商業協同組合ホームページ作成 |
西暦:2009年 | 元号:平成 | 21年 | 組合にて生産統計調査 生産農家に干瓢苗の無料配布1780本 下野新聞に干瓢記事連載 (干瓢王国は今) |
西暦:2011年 | 元号:平成 | 23年 | 第10回栃木のかんぴょう祭り 「歴史とロマンのかんぴょう街道」開催 |
西暦:2012年 | 元号:平成 | 24年 | かんぴょう伝来300年 とちぎ・かんぴょう伝来300年記念大会 開催 |
食べるだけじゃない。県民の文化にも深く根ざした干瓢。
干瓢と同じユウガオの実から作られるふくべ細工。干瓢は、果肉を細長くむいて乾燥して作るが、ふくべ細工は、果肉を取り除いた外皮を乾燥させて作られる。ふくべ細工の歴史は古く、戦国時代には、茶道用の炭入れとして使われていたという。現在は、宇都宮市を中心に、炭入れ、花器、小物入れ、色彩鮮やかに絵付けされた人形や魔除けの面などがお土産品として作られている。
▲上三川町の一刀彫
日光彫、鎌倉彫等の技法を取り入れ、独特な工芸品として完成させた「干瓢ふくべ一刀彫り」。2〜3年乾燥したものは、表面が堅い木工品のようになり、中はコルク状の空洞となる。
▲ふくべ細工
穴をあけ、種を取り出したふくべは、昔から炭入れ、小物入れなどに使用されている。
▲ふくべ炭入れ
▲魔除けの面(宇都宮市)
ふくべを縦半分に下野伝統の百目鬼(どうめき)をもとにした怪奇な面。天然の素材で作るので、どれ一つとして同じ形がないのがおもしろい。
後世に歌い継がれる干瓢音頭
詠まれた干瓢 描かれた干瓢
▲歌川広重『東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢』
(写真提供:那珂川町馬頭広重美術館)
江戸幕末期の浮世絵師 歌川広重(1797〜1858)の代表作『東海道五拾三次』に、水口名物干瓢作りの当時の様子がうかがえる。女性達がむしろの上にまな板を置き、夕顔の実を包丁で剥いて、棒に縄を渡した干場に干瓢を干している。向いの家の垣根にも干瓢が干してあるのがわかる。
干瓢剥き機発展の歴史
生産力や作業効率の向上を求めて、干瓢を剥く道具も改良を重ね発展を遂げて行った。
百年にわたるこれらの道具の発展は、生産力の飛躍的な向上に大きく貢献した。これらの改良や開発は、すべて石橋・宇都宮近辺の農民や職人の手によるもので、彼らの生活の知恵から生み出された農機具であった。
▲丸剥き用手回し機
▲手かんな
▲輪切り手回し
▲足踏式丸剥き機
▲動力式丸剥き機
▲動力式丸剥き機